残された時間の中で

そうだね

出会った頃を想い出して

ごらん

その風景に

つまんない隙間なんてあったかい

どんな季節も

僕たちは

精一杯だっただろう

いまは手探りで

その不確かな部屋の

ひとつひとつを確かめ

消えそうなものから

ありがとうと言って

そして

別離を告げよう

人の記憶の中は

いつも永遠で

そこには暮らしやすい国があり

毎日毎日

なんの苦もなく

みんなで

食卓を囲んでいる

それは

まるで楽園のように

昨日も明日もなく

まして

ことばなんていらなくて

だけど

時間は残酷だよ

記憶は曖昧で

楽園も消えて

残ったものは

目の前のテーブルの上の

チーズと飲みかけのコーヒー

でも

目の前に君がいて

君の真向かいに

僕がいて

そんな風景でいいかい

さあ

今日から

心の丈に

泣いてみよう

笑ってみようよ

残された時間は短いのよと

女神がささやく

そして

愛しなさい

強く愛しなさいと

女神がささやく

モーレツなコマーシャル

Oh! モーレツ

その昔、小川ローザという素敵なモデルさんがいて

クルマが通り過ぎるとスカートがまくれ上がった。

軽快な音楽に乗って、Oh! モーレツ

となる。

このCMは60年代後半に大ヒットして、

それは幼少(?)の頃の私の記憶にも残っている。

商品は、ハイオクガソリン。

丸善石油のCMで、確か「ダッシュ」というハイオクを入れると、

クルマが格段に速くなる、というもの。

それがホントなのか否か、真偽の程は不明だが、

当時はそんな広告が多かったたように思う。

広告表現も途上だったが、このTVCMはインパクトがあった。

当時の日本は高度成長の真っ最中で、景気も年々良くなるばかり。

文字通り、どこのお父さん方の誰もが、猛烈に働いていた。

そこには明日への夢があり、よりよい未来が約束されていたように思う。

きっと現在の中国の景気に似ているのかも知れない。

当時のサラリーマンは、憧れの職業。

みんな自信に満ちていて、数多くの猛者サラリーマンが、

世界に繰り出していた。

そして、日本で売れそうなものを世界の果てまで探しに行って仕入れ、

また、日本の製品を地球の隅々にまで売りに行ったりしていた。

こうして後、この国は世界から、

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるまでに成長したのだ。

まさに日本の経済事態がモーレツに急伸していた時代だ。

「モーレツ」のコマーシャルは的を射ていた。

時代背景をも、的確に表現していたと言える。

私と同世代のサザンの桑田さんも、

このコマーシャルの印象が強かったらしく、

小川ローザの白いミニのワンピースとヘルメット姿がアタマから消えないとみえ、

茅ヶ崎の実在したホテルの思い出を歌った「ホテルパシフィック」で

当時の彼女と同じ格好の女性を登場させている。

これぞ、印象に残るモーレツなコマーシャル。

昔のテレビコマーシャルが如何に影響力があったかという、

典型的な例だ。

旧型人間のデジタル戦略

仕事ネタをひとつ。

ワープロ時代から仕事をしているというと、

とても古い人間のように言われることがある。

精神年齢は若い人とあまり変わらない。

これは強がりではなく、彼らといろいろ話していてそう思う。

反って、いまの若い人の方が、しっかりした人が多い。

ただ、古い人間はだいたい腹の肉とシワが多い。

能書きを垂れ、疲れ易くなり、もの忘れが激しい。

これは致し方ない。

そして、切り替わらないのが「かな入力」なのだ。

かな入力派は、割と中年に多い。

ワープロ世代と重なる。

この世代のかな入力技は、ワープロの普及と共に叩き込まれた。

いまさらローマ字入力といわれても、

どうも考えていることと書くことが、乖離しているように感じる。

いや、乖離しているのは事実で、簡単なメールなどは

さっとローマ字入力で書いているが、その文中にちょっと

意味深とか気の利いたことを書こうとすると、

とたんに筆?が止まる。

というか、次に書くものがなにも出てこない。

これは我ながら不思議だと思い、或る友人にそのことを尋ねると

やはり同様の答えが返ってきた。

これは思考回路の問題なのだろうが、

私自身、ローマ字ではたいした思考ができないことを認識した。

英会話を覚えるとき、英語で考えなさいなどと言われるが、

私は、一旦自分のアタマで日本語に変換しているように思う。

だから、こちらも上達しないのだ。

で、かな入力だが、最近iPadもかな入力対応となった。

これは私たち旧世代には朗報で、AppストアでATOKを手に入れ、

アップルのBluetooth(ブルートゥース)のキーボードを使うと、

鬼に金棒となる。

(ATOKは日本語変換力に優れているし、iPadのディスプレイキーボードは、

結構疲れる)

外出の機会が多いと、当然、出先でメールチェックの他、なにかしらを

書くこともある。こんなときiPadは、かな入力技を手に入れたことで、

私には、以前にも増してその魅力が光るものとなった。

内輪の話をすると、こうだ。

まず、外出時にiPadとWi-Hiルーターは必携。

で、本格的になにかを書くことを想定すると、

誕生日プレゼントで子供たちから貰ったポメラを持とうか、

いや新しくミニノートでも買おうかと、

そんなことを半年も考えていた矢先のことだった。

(ポメラも、狙っていたミニノートも、

軽量・コンパクトでかな入力が可能なのだ)

思えば、iPadはディスプレイに触れれば、

拡大・縮小は自在。老眼鏡世代にも都合良くできているので、

ユーザー層の年齢はかなり高いのではないかと推測していた。

で、その世代は当然「かな派」が多いので、

そこに配慮したものと思うが、

この小さなバージョンアップが、

タブレット市場全体を眺めるにつけ、

ユーザーの取り込みにも、良い配慮になったようだ。

そんな訳で、私のカバンは今日も重くてパンパンだが、

後は、カード(お金)とガラケーのケータイがあれば、

当分帰ってこなくても、仕事はこなせる。

便利な時代になったと思う。

iPadには電子書籍も幾つか入れてはある。

音楽もバッチリ。ラジオアプリも入っている。

が、なぜか出掛けるときに藤沢周平なんかの文庫本が

カバンに一冊入っていないと落ち着かないのだ。

ついでに、

使いかけの黒ずんだ消しゴムなんかを入れておくと、

さらに落ち着く。

これはアナログへの郷愁とでも言おうか。

思うに、この平成という激動の時代は

大げさに言えば明治維新にも似て、

ものごとの価値の変換の激しいときのような気がする。

大きなうねりの潮目なのだ。

こんなとき、明治のサムライが靴を履いていたように、

刀ではなく鉄砲がスタンダードになったように、

原稿用紙ではなくとも、

IPadと藤沢周平の文庫本の併用は必須なのだ。

ショートショート「人間、如何に生きるべきか」

或る占い師が言うには

水の近くに住みなさい

水はあなたに欠かせないもの

そして足りないの

水の近くに住みなさい

同じようなことを

他の占い師数人にも言われたので

インターネットで

水の近くの物件を探すと

ここから遠いところばかりだった

みんなさよなら

僕は湖の見える高台に引っ越した

そしてそこで暮らすことにしたが

毎日が退屈だったので

釣りを始めたりボートに乗ったりもして

知り合いもできて

僕は満足だった

その湖が見える高台の家の隣には

初老の女性が住んでいて

或る時

その方と立ち話をする機会があって

とある高名な哲学者の奥さんだそうで

僕のいきさつを話すと

あなた

そんな人生がありますか

哲学を持ちなさい

あなたは本当はなにがしたいのと尋ねるので

そうですね

熱中できるようななにかがしたいですね

こう話すとご婦人は

とにかくウチの主人の大学へいらっしゃい

僕もそうだなと思い

再びこの家を引き払い

小さな町のアパートを探して

この町の大学へ通うことにした

大学の哲学の講義は

僕にはとても新鮮で

人は如何に生きるべきかを

論理的に分かり易く教えてくれた

こうして私の人生は

その意味が明確になったようだったが

そうこう哲学しているうちにお金が底をつき

人生は如何に生きるべきかなど

呑気なこともいってられず

住み込みの職を得るため

地下鉄が張り巡らされた街へ出て

一軒の中華料理屋で働くことになり

水のことが少し気になったり

如何に生きるべきかと

考え悩みながらタンメンを運んでいたら

お客さんにうっかり熱いツユをこぼしてしまい

店のご主人に

今度こぼしたらクビだぞと

言われてしまった

その中華料理屋は私鉄出口のすぐ前にあって

夜中まで繁盛しているが

毎週月曜の休みの日は

どこからともなく人が集まって

みんなでお経を読む会が開かれていた

僕は休みなのにこの会に駆り出され

みんなにお茶を配ったり

線香の煙を絶やさないようにと言われ

そのことばかりが気になり

ずっとみんなのお経を聞いていたが

そのうちお経を丸覚えしてしまい

じゃあというんでみんなが僕を前へと引きづり出し

君のお経への理解は並ではないねと言われ

自分なりの解釈を恐る恐る話すうちに

「この青年はただ者ではないぞ」と中のリーダーが

なんと私を本部へ推薦してしまった

そこで丸3年の修行のようなものを積まされ

次に君がこのお経を広めるべきところはここだ!と

地図で指さした所は私が以前ずっと住んでいた町だった

僕はその町でお経を広めることを始めた頃

幼なじみの同級生は僕をよし坊と昔のあだ名で呼び

馬鹿にしていたがやがて

僕の哲学的お経の解釈や

占いを混ぜたような予言をつぶやくと

次第に僕を先生と呼ぶようになっていた

そして人間として如何に生きるべきか

その意義と尊厳と題して聴衆に話す度に

僕は日に日に有名人になってしまった

僕は8年ぶりに生まれ育った町に

再び住み着いたのだが

このように先生先生と呼ばれるようになり

いまではテレビでも引っ張りだこの

全国的な人気者になってしまったが

僕の人間如何に生きるべきかという悩みは依然消えず

相変わらず

以前の占い師さんに

結構なお話を頂く日々なのだ

夏休み

ダリア カンナ グラジオラスが

重なるように

鮮やかに濃く

学校の花壇で揺れていた

陽射し かげろう

校舎と電信柱の

深い陰

絵日記はいつも群青で

空の絵と

水まきの虹

最高気温30度

プールの喧噪と

浮き袋のビニールの匂い

まぶたを閉じて広がる

オレンジ色とジリジリと鳴る

真夏のお陽さまの

おしゃべり

ヨーヨーキャンディー

ひやっとして

子安 大口 工場の鉄を叩く音の帰り道

玄関を開けると

金魚と水草

ガラスの紫のふちどり

昼寝したいな

けだるさと畳の匂い

午後3時

ブリキのたらいに

水鉄砲を浮かべて

スイカも浸けて…

赤いかき氷 

黄色いかき氷 

そして

メロン味のかき氷

もくもく入道雲が

山の上にのっかって

長い石段の上の

森に佇む

神社の夏祭り

ミンミン蝉 クワガタ 

不思議な玉虫 竹の虫かご

そしておはじきとビー玉の色 

夏の色

それは

遠い昭和の記憶

私のいろ 

「いま」という時代の広告表現

ツイッターやmixi、フェイスブック等のSNSを除くと、

ネットはほぼ検索だ。

で、ネット検索をしていて思うことだが、

目的に辿り着く前に、

アレコレと売り込みが始まる。

ポータルサイトをぼぉ~っと眺めていても、

クリックの先で、

いつの間にか、なにかを売り込まれている。

油断も隙もない。

そういう私も、サイトづくりなどの仕事をしているが、

それが楽しいかと聞かれると、

最近は正直「うーん」と考えてしまう。

クリエーターとして、売り上げに貢献できるのは、

素直に嬉しい。

が、表現者の一人として思うところもあり、

ムカシのほうが良かったと思うこともしばしばだ。

ネットは、

検索で辿り着く先の情報を見聞し、

その親切で事細かな説明に感動し、

ちょっとその気になったりもする。

また、知り得ない情報を発見することもあり、

思わぬ勉強にもなる。

しかし、

キーワード検索で訪れた先のリスティング広告は良いにしても、

或る記事などの内容に連動する目的でつくられたコンテンツマッチ広告は、

追いかけ過剰の感もある。

バズの類いに至っては、

商品や事柄にまつわる噂や推薦で溢れていて、

文字通り、もう視覚の騒音だ。

ネットの特質といえばそれまで。

そういえば広告の性格もひと昔前と違い、

マーケティングテクニックを駆使した広告やサイトも多く、

いまは、いわば延々の説得型が主流となる。

そして、それを証明するかのような数字と、

お客様の声の数々が、コンバージョン(成約)を後押しする。

考えてみれば、検索で辿り着く先は、

自ら探す、いわば能動的な行動であり、

その先に納得させられるものがあるのだから、

当然コンバージョン率(成約率)も高くなる。

このとき、広告やサイトはロジックで構成され、

後述する手法を完全にマスターすれば、

サイトの持ち主は、億万長者も夢ではないのかも知れない。

最も、世の中はそんなに甘くはない。

いまの時代の広告づくり、サイトづくりは、

苦労が絶えないのだ。

サイトの仕掛けの裏はいま、

数字やグラフで詳細をチェックできる。

アクセス解析は、

訪問客の入り、滞在、離脱等を、すべて記録する。

裏を返せば、

リスティングなどのキーワード広告は、

このアクセス解析に則って各所を改善すれば、

より高い売り上げをめざすことも可能である。

それはコピーの改善であり、デザインであり、

値付けの的確さを追求するものでもある。

いろいな角度から、広告の検討を加えることができる訳だ。

こうした効果測定は売り上げを改善し、

同時にクリエーターや制作者に、

科学的アプローチに基づいたチェック(文句?)を入れることもできる。

要は商売なので、

そこに昭和の匂いのするような文学的表現は不要と思われる。

そして、美しいデザインではなく、売れるデザイン。

いまの広告は、すべてがこのように動いている。

視点を変えれば、

ムカシに較べて味も素っ気もない。

売り込みに優れた表現だけが生き残り、

そうした表現が蔓延するいまのネット広告に文化があるのか、

と問われれば、

そんなものがあるのかどうか怪しいが、

検証したこともない。

しかし、いまのネット広告は

感覚ではなくロジック。

遊びではなく、計算。

文学・アート的ではなく、説得が多勢を占める。

そして、余韻と余白。

ここが実はムカシの広告の面白いところなのだが、

これを無駄といわれるのが、

いまという時代の広告の姿なのだ。

的確に時代の匂いを嗅ぎ取り、

人の心を反映するのが広告である。

あなたも私のように、

いまの広告を世知辛いと感じたなら、

きっとこの時代は、

そのような世の中なのだろう。

夏草

男は答えた

俺はいま敵と戦っているんだ

それが一体誰なのかだ

正体を暴きたいてぇんだよ

錆付いた鎌で夏草を刈りながら

男は

金にもならない汗をぽたぽたと垂らしながら

チクショーチクショーと繰り返した

遠くに穏やかな海が見える

綿のような雲がぽかりと

二つ三つ通りすぎてゆく

その建物は遠目からみても異様に大きく

村や町を支配している君主のように

冷たい影を延ばしていた

息子なんだよ

男が胸のポケットから一枚の写真をとりだす

まだ小学生だろうか

半ズボン姿で陽に焼けた顔に満面の笑みで

こちらにVサインを繰り出している

こんなことになっちまって

息子にはすまねぇと思っている

男は手を休めず

吹き出す汗を拭いもしないで

刈った草を次々に放り投げてゆく

あのよ

この刈った草を畑に敷くだろ

枯れた草は土と相性がいいから

土はよろこぶし

雨が降って雪も降ってよ

みんな栄養になるのよ

本当はそういう国なんだよ

この国は

彼はようやく手を休めて

腰を伸ばすと

手ぬぐいで汗と涙を拭い

そのコンクリートの要塞のほうを向いて言うには

いままではやさしかったんだよ

彼奴らもね

だからわからねぇんだよ

人間って奴がよ

そして

草むらで捕まえたバッタを摘むと

高くかざし

こいつだってわからねえ

この先

どんな命なのかわからねぇよ

男の話を聞きながら

その敵というのは

こちらが想像していたものよりさらに大きく複雑で

それは誰かではなく

果たして形すらあるものなのかと

新たな不安がうまれ

私も

その男の持っていたもうひとつ鎌を借り

まずこの夏草を刈らねばなにも分からない

そううなだれるれるしかない程

身を恥じるしかなかったのだが

ふたりなら、なんとかなるさ!

このタイトルは、コピー風につくってみました。

かの名コピーライター中畑貴志さんの作品に

一緒なら、きっと、うまく行くさ。(セゾンカード)

というのがある。

これを頂いてみたが、センスが雲泥の差。

しょうがない。

で、このふたつのフレーズから漂う共通項は、

アバウトな楽観の匂いであり、

計算でははじき出せないものを肯定しているという点。

そして複数(恋人とか夫婦)のキーワード。

これらに綿密な計画は感じられないが、

希望のあることばではある。

最近あちこち、特にビジネス、いや人生に至るまで、

綿密な計画性が求められているような気がする。

私もそうした話を聞く度に、「そうだろうな」とうなずき、

最も…と感心すらさせられる話が多い。

要は、

行き当たりばったりで生きていると、

ろくなことがないということらしい。

成功する人間は、

そもそも立派な志と綿密な計画を立てることから始まるらしいのだ。

そういう意味からすると、私は即失格。

こうした仕事をしている割に、計画性に乏しく、

気がつくと気ままに考え、行動しているところがあり、

特に、予約とか、先ざきのことまて決めなくてはいけない

日常のさまざまな行為が、最も苦痛だ。

そんな適当なやり方で、なんとか今日まで生きている訳だが、

振り返るに、

ろくなことはないこともあったし、

ろくなことはないなんてことはないこともあるのだ。

仕事の場合は、当然のように計画性を求められる。

でないと、相手も不安だろうし、物事が計画通りに進まないと、

いろいろなところに支障が出る。

この場合、自分以外の人のために、一応計画をたてることにしている。

無計画で良い結果は得られないというのも、定説だし。

で、ついでにいわせてもらえば、世の中はすべて予約制だ。

ホテル、歯医者、美容院…なんでもそう。

行き当たりばったりは、ほぼ許されない世の中なのだ。

いまの世の中は、計画性が必須。

で、計画とは、いわば目的・成功に至るロードマップ。

ここがしっかりしないと、目的とか成功は達成されないといわれている。

ホントのような気もする。

だがしかし、そうでもなさそうな気もしている。

相当ムカシのことだが、旅行の日程を分単位で決めている奴がいて、

そいつにスケジュールを任せて出掛けたのだが、

ほぼ修学旅行と変わらない雰囲気の旅行になってしまったことがある。

また、遠い友人に10代で子供をつくったのがいて、

当時彼に「これから大変だな」といったところ、

「いや、俺が30代でこの子が成人して独立、俺とかみさんは悠々自適だよ」

と自慢されたことがあり、私はたいそう驚いたことがある。

立派だなと、つい思ってしまった。

が、この友人は、数年後に奥さんに浮気されて離婚。

いまは再婚して、全然違う人生を歩んでいる。

お互いに中年になって、彼にこのときのことを話したところ、

まるで他人事のように、

「そんなこともあったな、へへっ」でした。

さて、世の中には、

なんとなく生きているうちに良いところへ辿り着くような人もいる。

これも私の友人の例だが、

なんだかいつも飄々としていて、

若い頃から上昇志向のかけらもないない男なのだが、

最近彼と話していたら、

「なんだかさ、所長になっちゃってさ」と聞かせられた。

彼も、一応名の知れた上場会社努めなのだから、

世の中、よく分からない。

という訳で、私の回りだけでも、

いろいろなケースをみることができる。

これらを分析したところで、答えがはじき出せるものでもない。

かように、世の中とはよく分からないものであり、

人生とは、不確実なものに満ちているような気がするのだ。

保険、年金、老後。これらを考えると、

いまの私にとってかなり深刻な問題なのだが、

そのシミュレーションなどをみていると、

理解しようにも疑わしい匂いを放つ。

備えあればそれに越したことはないが、

防災などの計画と違い、こと人生等において、

やりすぎ・考えすぎのシミュレーション予想は、

たいして当たらないような気がするのだ。

それは不確定要素の先に、なんだかもっと得体の知れない

なにかが潜んでいるからに他ならない。

それが運であり星であり、

心であり宇宙の法則なのかも知れない。

思えば、地球だって偶然の産物。

一寸先は闇か光かなんて、誰にも分からないことだし、

いまこの国に於いてさえ、

なにが起こるか分からない。

こんなときに、こんな時代に

より不確実なもの、みえないもの…

例えば、愛だとかを信じてみること、

そしてそれを語ることはかなりクサイ。

しかし、私はこの辺りに、

なにか大切なものが眠っているような、

隠れているような気がしています。

ふたりなら、なんとかなるさ!

一緒なら、きっと、うまく行くさ。

そのムカシ、

私たちが若かりし頃は、みんな

こんな感じでスタートしたように思う。

妙なシミュレーションや綿密な計算より、

この先、再びこんなことばの方がぐっとくる世の中になれば、

それは、かなり素敵なことと思いますが…

梅ちゃん先生の違和感

NHKの朝ドラを観るのが習慣になっているが、

梅ちゃん先生は、どうもあっちこっちひっかかるな。

妙に平和で安定した筋書きは、まあそうかなとも思うが、

この先も事の流れは読めそうな気がしてくるから、

安心して観れるといえばその通り。

が、なんだかひと味足りない。

このままだと梅ちゃん先生がどんだけ良い人で、

その上、如何に周囲の人の役に立ったかで終わりそうな気がする。

だとすると、全く印象に残らない梅ちゃんだな?

梅ちゃんは、元々アタマもイマイチでおっとりしている性格、という設定だ。

が、彼女の凄いところは、医大へまぐれで入学できたところから始まる。

まぐれなのに運良く卒業してしまうから、ただのウスラではない。

就職も、親父のコネも使わず、帝大付属病院の面接で、

この大学病院の定食が美味いという発言がきっかけで就職できてしまう。

これには私、正直驚きました!

梅ちゃんは、その日本一の帝大付属病院で働くうち、

自分の街の下々の人を見るにつけ、黙っていられなくなる。

主人公の正義感は半端ない。

で、なんと独立を決意し、この人たちのために医院を開業してしまう。

梅ちゃんは度胸もある、まっすぐな性格です。

開業資金ですか?

まあ、新築した自宅の隣の敷地に以前住んでいた小屋が残っていたので、

そこを改装して新規オープン!

しかし、そんな土地ありましたっけ? 古屋、残っていたんですね。

こうしたストーリーって連ドラによくありがち。

朝のひとときには微笑ましい。

が、私のなかの違和感は日に日に膨れあがっている。

それは、

一人の女性が生き抜いたというリアリティの欠如なのかも知れないし、

ほのぼのしたこのドラマの味を大切にする余り、

ただのお伽噺にはなっていないだろうかという点だ。

少なくとも、先のゲゲゲの女房やカーネーションに較べて

ワクワクドキドキ感は失せ、

フィクションなので致し方ないが、

人物とストーリーの描き方が平坦すぎる気がする。

自分はさておき、まわりの幸せを第一に考える、

明るくて一途な主人公は梅ちゃんこと、堀北真希。

絵に描いたように分かり安い頑固な親父は、

演技していますとでも言うように、高橋克実が演じる。

また、なんでも「はいはい」と言って微笑んでいる南果歩演じる奥さん。

この人の正体が私はよく分からないのだが、

義母(倍賞美津子)とのコンビで、

割と軽薄な性格付けに終始しているのが違和感。

このドラマは、いわば水戸黄門のような安定感を狙っているのかも知れないし、

戦後風景のなかで、さざえさんのような微笑ましさが欲しかったのかも知れない。

それはしかしときに、

スマップでも観ているかのような見え透いたエンタメ感に終わってしまう危うさもある。

作者は、相手がNHKということで、ホームランは敢えて狙わず、バントに固執し、

必ず点を取る作戦に出た模様とも思えるのだが、こうした冒険のなさが逆に作用し、

ストーリーのあちこちに歪みを生んでしまったようだ。

また、初頭だったと思うが、

戦後の廃墟のなかを米軍がジープで表れ、汚い子供たちが

「ギブミーチョコレート」というシーンがあった。

これは、分かりやすいといえばそうだろうし、

そうしたシーンは日本の敗戦の伝説風景にもなっている。

いわばひとつの記号なので、誰もが理解できるように使われたのかも知れないが、

こんなシーンをよく使ったものだと、今更ながらNHKの感性を疑う。

つくり手は、こうして物語をスタートさせ、

戦後の日本はどんどん良くなり、女性の生きる場が増えたとでも言いたいのでしょうか?

私は、このシーンに関して、

この国の人間としてのプライドはないのかと、つくり手に問いたいのですが…

梅ちゃんは、今日もこれからも日毎に偉くなっていくし、

主人公役の堀北真希の人気もうなぎのぼりの現在、

私はただのひねくれた感想を書いているに違いないが、

こんな平和な話がいまの私たちに残すものは、

果たして安心・平和なのか?

この時代だからこその梅ちゃん先生なのか、

こんな時代に梅ちゃん先生なのかよ、なのか、

毎朝そこを計りかねている私は、

やはりただの変わり者なのかな。

生きているということ

生きているということ

それは

せせらぎの如し

天馬のように駆けること

雫に似て瑞々しく

湧き上がる雲と

のびやかな勢い

石のように踏まれ

削られても

このひと魂

天空にあり

生きているということ

それは想い馳せ

考え倦ね

更に悩み深くも

その体躯で知ること

知るも分からず

帰るも還えらず

共に可笑しく

氷のように凍てつくも

このひと魂

天空にあり

前へ

前へと

生きているということ

生きているということ