枕のことを考えると眠れませんよ!

私は以前、枕のことなんかどうでもいい人間だった。

朝まで居間で寝ていたこともあるし、

そんなときは転がっているクッションを枕にして寝ていた。

そんなもんでOKだった。

が、あるとき、ウチの奥さんが枕を買い換えたいと言う。

「そう?」と私。

そういえば、

つい最近のいつかは忘れたが、彼女は一度枕を買い換えたような…

が、彼女曰く、枕が合わないと言う。

そんなことがあるのかなぁと、私は気にも留めなかった。

が、あるときまた枕の話になり、

よくよく聞くと、

朝起きると首が痛いとかいろいろな不具合が出ていたらしい。

ふーんと思い、私は私なりではあるが、

枕について少し調べることにした。

と、みんなが実にさまざまに、枕について述べている。

その種類も多岐に渡り、売り込みも激しい模様。

なかには枕フィッターみたいのもいるし、

枕研究所みたいな所もある。

ふーん。

とにかく枕にまつわる話とか製品が異常に多いのだ。

気がつくと、世の中は枕のことだらけだったのだ。

世界は枕を中心に回っていたのだと思った。

私はそのことを全然知らなかったのである。

で、あるとき、彼女の買い物に同行することにした。

イオンとか東急、ニトリ、

果てはホームセンターの枕売り場に至るまで、

枕の実体についての実地調査と相成った訳だ。

そば殻枕は定番である。

が、同じそば殻でも、

メイド・イン・ジャパンとかアレルギー対策のものは高いと知る。

また、羽毛、プラスチックのパイプ、スポンジ、発泡天然ゴムから、

ポリエステル、ポリウレタン素材のものもある。

更に、低反発枕とか高反発枕等々、その様は百花繚乱。

果ては陶器まである。

うーん!

そして、

人間工学の観点から研究した枕、科学の粋を結集しました枕、

メディカル枕、調節自由自在の機能性枕など、

そのすべては把握できないが、枕の世界の複雑怪奇を

私は知ることとなった。

値段も実にさまざまで、1000円くらいから数万円のものまである。

なんでそんなに価格が違うのか、そこが問題だが、

素材とつくりの差は理解できても、それ以外はよく分からない。

ただ、

メディカルとか科学とかの冠がつくと、グッと高くなるのが分かった。

うーん、深い。

家に帰って枕というのを更に調べるにつれ、

元々枕は、人の生や死と密接に結び付けられていたことも知る。

ウィキペディアによると、

「日本語のまくらは、たまくら、つまり魂の倉が語源であるとする説がある」とのこと。

他、さまざまな文化で、枕の歴史や権力の象徴のようなことが語られている。

興味深い話ではある。

が、要するに今回の私の場合は、奥さんの首が痛いから始まった話なので、

そこらへんのアカデミックな話はこの際、スッパリ省くことにした。

簡単にいうと、

カラダに負担のかからない枕がみつかれば、それでOKなのである。

さてである。

デパートなんかへ行くと、専門の方がカラダのいろいろな箇所を測定し、

試し寝なんかもさせてくれるらしいが、私はそこへは行かない。

理由はふたつ。

まず、すげぇ高いだろうということ。そして、いくら試し寝ができても、

一泊しなくては分からないだろうという推測。

これは奥さんとの議論で導き出した回答だ。

とここまで書いて、

いまだに奥さんに最適の枕は見つかっていないことを報告しよう。

現段階で、どうやっていい枕を見つけようか?

その方法論で行き詰まっている。

あぁ、

それを考え始めると、今日も仕事に支障が出るなぁ…

私だけおちおち寝てもいられないしなぁ…

緊張して眠れませんよ!

お手軽コーヒーを飲み較べてみた

セブンでも遂にというか、

レギュラーコーヒーが飲めるようになりました。

ということで、早速頂きに参りました。

価格は100円ポッキリ。

安い!

まだ2回しか試飲していませんが、

感想はというと、まあまあというところ。

このまあまあというのは、

あくまで缶コーヒーに較べて、です。

そして100円という値段を考えての評価です。

ハッキリ言って、コスト安が味に出ています。

荒い味です。で、少し粉っぽいか?

が、いま評判のネスカフェ・バリスタより、

味は良いと思います。

バリスタは、新しい生活提案ということで○ですが、

ネスカフェのインスタントという域を出ないのが残念。

泡立つ雰囲気はGOODなのですが、腰がない。

惜しいです。

まあ、スタイルが斬新というところでしょうか。

で、話は戻りますが、

セブンより、ミニストップのレギュラーのほうがうまい。

ミニストップ、割とイケマス。

そうですね、味は調度タリーズと同レベルのよう。

セルフで入れるのは、セブンと同様ですが、

味はざらついていません。

ちなみに、タリーズよりドトールの方がうまいです。

で、話はコンビニに戻りますが、

やはりこのあたりでうまいのは、先行するサンクスです。

一杯ごとのカートリッジなので、

それなりにコストもかかっているよう。

こだわりに見合う味と薫りが、他を引き離した感じです。

これで150円ですから、私はこれに軍配を上げます。

あとは、各人の好みということで…

番外ですが、

お馴染みのマック・カフェは、

セブンのコーヒーと同程度レベルと思います。

低値安定ですね。

これらレギュラー、いやマシンコーヒーが、

いまはとても身近になりました。

どこでも頂ける。

スタバがいっぱいでも、

コメダ珈琲が近くになくても、

入れ立てのコーヒーが飲める時代になりました。

こうなると、経済学部出身の私としては、

世界のコーヒー相場が気になるところ。

おとなり中国でも、市場はこれから伸びることでしょう。

コーヒーが世界でどのくらい生産されているのか、

私は調べたことがないので知りませんが、

まあ、グラフの先はみえますよね?

マグロと同じです。

ウナギと変わりません。

このままだと品薄感が漂います。

やっとお手軽コーヒーがラインアップされたのに、

また危機必至じゃありませんかね。

ホント、グローバルな時代になりました。

イノチノジカン

崖の上の柵につかまって

下をのぞき込む

削れた赤土の上に溜まった池のなかを

一匹のサカナが泳ぐ

数日前まではなかった池なのに

キミはどこからやってきたの?

あの大雨の日に流されてきたのなら

キミはあの山で泳いでいたのかな

と僕は問うて

ほらっ

池の淵に気をつけなよ!

クチバシが長く

鋭い目をした大きな鳥が

きみの行方を追っている

あぁ

きっとキミはもうすぐ喰われちゃうんだ

そうだ

キミはきっと天から降ってきたんだ

そう思うことにしたよ

いいね

僕はキミのこと

すぐ忘れるよ

いや

いつか山の上を尋ねてみよう

それでいいかな…

僕はこの春の陽ざしが好きだし

この季節の空気はいい薫りがする

キミはきっと天から降ってきたんだよ

僕はね

サカナなんか

大嫌いだ

タダのものを有益なものに変える力

以前、論語に関する本を何冊か買って読んでいた。

が、どれも難しいか、断片的な物言いで、

どうも論語の全体像が掴めないでいた。

ウィキペディアでみても、いまひとつ

物足りない。

或る日、本屋でふと論語の特集をやっている

月刊誌が目に留まる。

これが秀逸の出来で、その編集力に恐れ入った。

そもそも論語とは、から始まり、

その歴史や時代背景、

孔子の生い立ちや人脈等が

コンパクトにまとめられている。

ひとつひとつの語彙の解釈も簡潔で、

そのことばの奥深さもみえてくる。

断片的に知っていた論語に関する知識が、

すっと頭のなかで繋がる。

図解やイラスト、デザインも秀逸で、

これは、ネットではまず出せない味わいと思った。

本が実体として存在しているのも、好感がもてる。

やはり紙はいいなぁと…

気になる箇所に印を付ける。

読みかけのページに折り目を入れる。

こうして、私のオリジナルになるのだなと実感。

最近、一時より本の買い物も増えている。

なぜか大判のムック誌が多いが、よくよく思い返すと、

誌面のビジュアルと編集力が魅力なのだろうと思う。

ネットの世の中だが、いい加減疲れることが多々ある。

というのも、前述した編集力が、

どこも欠けているのだと気づく。

紙の良さも、改めて納得。

が、それ以上に編集力の差が大きい。

良い雑誌をみるにつけ、

話題、コンテンツのまとめ方、デザイン、写真――

――どれをとってもプロの仕事だなと感心する。

これらが有料なのは、考えてみれば当たり前なのだ。

一時、フリーというベストセラーも出たし、

ネットを始め、情報や知識はタダという風潮がある。

しかし、良いコンテンツに対して敬意を払い、

その対価を支払うというのは、

極めて自然な行為だ。

紙かネットかという議論は、この際置いといて、

今回私が言いたいのは、ずばり編集。

世の中に転がっているタダ情報を、

どう組み合わせ、どこにポイントを置くか?

また、それをどう見せると魅力的なのかを、

編集のプロは心得ている。

今後、編集力は、ますます需要が増すだろう。

良い素材は、巷に落ちている。

後は調理次第で、料理の出来は

どうにでもなる。

うまい料理をつくるには、

編集力がものを言う。

若い人たちがこれから学ぶとしたら、

私は「編集」をオススメする。

贅沢は素敵だ!

地球温暖化、そしてエネルギーが枯渇する懸念から、

そもそもエコは始まった。

当初、エコは悪く言えば、単なるブームに過ぎなかった。

が、やがてその地位は安定し、

現在はしっかり足が地に着いている。

というより、エコ度はいま、さらに加速している。

シェールガス供給にメドが立とうが、

メタンハイドレートが出ようが、

地球全体で、温暖化阻止、

もったいない運動は推進されている。

例えば、クルマ。

私がたまに行くカーデイーラーでも、

ショールームに展示してあるクルマは、

どれも排気量を下げ、

車体の軽量化と燃焼効率、Co2削減に知恵を絞る。

特に、燃費の善し悪しは、

買うか否かの最大の焦点となる。

ハイブリッド車も現在は全盛だ。

クルマの魅力や価値観も相当変わった。

だから、

大排気量で疾走するスポーツカーなんぞ、

いまや時代遅れ、と私は思っていた。

が、世の中は広い。

多様化の時代なのである。

エコとは全く無縁のクルマもどっこい健在のようで、

それが時代遅れなのかというとそうでもなく、

そうした市場はしっかり形成されている。

この場合、ただデカイだけのクルマなら、

アメ車の話だけで充分だが、

そのアメ車だって、ダウンサイジングしている。

そんな時代の流れのなかで、

価格面でも仕様でも全然エコじゃないクルマが、

幾つか存在する。

例えば、欧州のスーパー4WDがそれだ。

レンジローバー・イヴォーグは、45°の急勾配でも難なく登るし、

50㎝の水深でも走り続けられる設計になっている。

で、車体価格が600万円弱。

贅沢。

そんな坂、どこにあるのかとか、

いつ水の中を走るのかなどと、

野暮なことを言ってはいけない。

いまこのクルマは、欧米や日本でも飛ぶように売れているのだ。

で、お馴染みのベンツやポルシェも、

大排気量4WDを発売した。

ポルシェに至っては380馬力の怪力を秘めているというから、

これは贅沢というよりも無駄のようにも思えてくる。

現実的に考えて、いま世界の道路で、

この怪力を試す機会は皆無と思う。

で、車体価格だが、

ベンツCLSシューティングブレークが1000万円弱~1800万円。

ポルシェカイエンSハイブリッドが、1113万円。

私からすれば、まず4WDっていうのが、そもそも贅沢である。

あと、こんなに高額で、ローンなんて組めるのかとか、

そういうセコイことしかアタマに浮かばない。

ポルシェは驚くことにハイブリッドだが、

それにしてもリッター10kmを稼げるのは、

高速巡航の場合だけらしいということ。

うーん、贅沢!

で、もっと凄いのがフェラーリ。

4人乗れて、荷物もいっぱい積みたいと誰が言ったか知らないが、

最高速300㌔くらいの性能は維持したまま、

その要望をカタチにしたのが、フェラーリFF。

V12気筒エンジンを搭載し、高速道路を330㌔で疾走する。

で、車体価格が3200万円也。

こうなると、超高級4WDだの超豪華RVだのと言っている場合ではなく、

なんだこの価格は、となってくる。

一戸建て住宅のようなこの車両価格で、

一体誰が買うのだろう。

が、現実に売れているというから、

世の中はやはり広いのだ。

格差社会とか経済格差ということばが閃くが、

私としては、こういうものが売れる社会というものも、

まんざら悪くないような気もする。

それより注目すべきは、

エコだけで地球を救えるか、ということ。

私が思うに、

エコだけでは、きっと人類を救えないのだ。

人の歴史は無駄の歴史でもある。

その最たるものが、

芸術とかアートとかいわれている領域ではないだろうか。

で、これが無駄かというと、そんなことはない。

これは、皆が認めるところだ。

華やいだ時代や地域には、必ずといっていい程、

芸術・アートが開花している。

贅沢や、一見無駄なモノ・コトは、

巡り巡って、やがて私たちの生活・人生を潤す。

これは、皮肉なことだ。

実用一本槍で、私たちは暮らせない。

だから余暇があり、レクリエーションがあり、

遊びがある。

クルマのハンドルだって、遊びがある。

遊びのないクルマは、怖くて運転もできない。

エコで地球は救えるかも知れない。

しかし、私たちを救ってくれるのは、きっと無駄なのだ。

では、例えば上記した超贅沢なクルマたちは、

一体何を生むのか?

想像できることは、

きっと、あんな無駄なものを買う人たちは、

他でも有益な無駄をしているということ。

それが寄付なのか、テクノロジーなのか、

芸術家やアーティストの手助けなのか分からないが、

とにかくその辺りに期待はできる。

要は、無駄が巡ることが、

次の創造に繋がるということではないだろうか。

こう考えると、

やはり人間というものは、

つくづく複雑系ないきものだ。

濃密なとき

90年代は、僕にとっての激動だった。

神奈川にいる親が高齢になったこともあり、

再三オファーがかかるようになった。

加えて、仕事上のいきづまりなどが重なって、

結局、東京の事務所兼自宅マンションを引き払うことにした。

この仕事を辞めようと思ったのも、この頃だ。

最後の荷物をまとめて、引っ越し屋さんから

「出発の準備ができました」と言われ、

ああ、もうこの生活は終わったんだなと、

やっと気づいた。

ガランとした部屋に佇んで、

壁を眺めているうちに、

涙がとめどなく流れた。

幼い長男は、そんな僕を

じっと見ていた。

この街で、

僕は何を追い求め、

何を掴み、

そして何を失ったのか…

がしかし、

とにかく僕は挑戦をしたのだ。

ここで費やした時間は、

社会への助走であり、

人生への賭けであり、

僕の、かけがえのないときでもあった。

傍らには、不安に苛まれることもなく、

ずっと奥さんがいてくれた。

愛おしい子供も産まれ、

無邪気に育ってくれた。

僕らの濃密で膨大なできごとが、

この部屋に、

いや、

東京という都会のなかのわずかな隙間に

ぎっしり詰まっていた。

若くして志したことを、

現実に引き寄せる力だめしのときは、

とにかく一端終わったのだ。

夢を追うこと。

負けない心。

ぶれないで走る。

やり通す。

いま思えば、そのどれもが危なっかしくて、

見ていられないものばかりだ。

でも、走り続けた事実は、

確実にこの手に掴んだ。

その感触を、いままた温めて、

若い誰かに手渡したい。

繋がる、ということ

その或るひとは、

初対面にもかかわらず、

会って5分もたたないうち、

私にこう切り出した。

「今度、あんな波が来たらさ、

俺たちみんなで呑まれよう。

そう言っているのさ。

俺たちは、ずっとあそこを動かねぇからさ」

途端、こちらの心臓が縮まった。

いや、それは…とも

そうですね…とも言えず、

私は瞬間的に

「はぁ」とだけ返答したように思う。

前後の話は、いま思い出そうとしても、

何も覚えていない。

ただ、地下鉄の入口まで見送ったとき

その広く頑丈そうな背中が

もろい石のように、

いまにも崩れそうな不安定さを帯びていた。

ひとはひどく弱いいきものなのだ。

しかし、一端翻ると、これほど手強いものは、

自然界に存在しないかも知れない。

毎日、チマチマと生きている自分なんぞに

分かるハズもない、その或るひとの日常。

私のすべては、

きっとそのどうしようもないチマチマだから、

ひとは経験によって、この世界をみていると感じた。

あの日、私はせいぜい揺れた怖さの他を知らない。

その或るひとは、ほんの数分の間に、

私にひとの想いというものを教えてくれた。

そこから、果てしないものがみえる、ということ。

やはり、

ひとは伝え、繋がって生きてゆくものらしい。

私の場合の死ぬかと思った

その1

学生時代は海ばかり行っていた。

潜ってウニを採る。

こう書くと、どこの海?となるが、

葉山あたりでも、昔はウニが

うじゃうじゃいたのだ。

で、潜りに飽きると、今度は波乗りとなる。

下手なくせに、低気圧がくると聞くと、

みんなで海に出る。

で、ここでとんでもない目に遭った。

大波に挑戦しようと、

パドリングで沖をめざす。

目前に山のようなうねりが近づいた。

これはまず恐怖しかない。

次第に、波の先が白じれて崩れ始める。

このあたりでうまく波に乗らないと、

後が怖い。

が、カラダが立ち上がらない。

必死でバランスを取っているうちに、

波が崩れる。

もうこれは水の壁に襲われるようなもので、

ボードが吹っ飛ぶ。

我がカラダが、

洗濯機の中の洗い物のようになってしまった。

それも横でなく縦水流なので、

息がもたない。

上下の感覚が麻痺する。

必死で海上に顔を出し、荒い呼吸をする。

と、次の波にのまれる。

こんなことを繰り返し、

なんとか浜に辿り着いたとき、

もう二度とこうした遊びはすまいと、

心に誓った。

その2

信州へでかけるため、

中央高速を突っ走っていたときのこと。

冬晴れの気持ちのよい日だった。

談合坂S・Aを過ぎて左車線に寄り、スピードダウン。

のんきに音楽を聴きながら前をみていると、

斜め前方にぼろい長距離トラックが走っている。

積み荷をみて、過重オーバーと思った。

それはタイヤと車体の揺れをみれば分かる。

一時期、トラックドライバーをやっていたので、

そこは敏感に反応する。

嫌な予感。

と、そのトラックの後輪のダブルタイヤのホィールキャップが外れ、

いきなり高速道路上に転がり始めた。

その直径は1㍍くらいだが、当たればダメージは大きい。

こっちは80㌔相当で走行しているのだ。

銀色に光るホィールキャップが、みるみるこちらに迫る。

このままだと激突する。

ハンドルを切ろうとするが、トラックの後方、

即ちこっちのクルマの横に、1台の乗用車が並走している。

高速での急ハンドルは危ない。

もう避ける方法がない。

アクセルを踏むか減速するか一瞬躊躇し、

そのままという決断に至る。

銀色に光るホイールキャップは、

我が愛車の1㍍前あたりを横切って、

ガードレールに激突した。

この光景は、バックミラーで確認したので、

鮮明に覚えている。

あー、怖かった!!

その3

防空ごうというのは、

飛来した戦闘機から身を隠す穴のことだが、

私の幼かった頃の横浜の町には、

こんな穴がいくつも口を空けていた。

いまでは考えられないが、

当時はこうした穴が放置されていて、

子供の格好の遊び場だった。

京浜工業地帯の一角に、或る進学高校があって、

私は、なぜかそのグラウンドで遊んでいた。

海を望む高台のそのグラウンドの端には、

やはり防空ごうがいくつか放置されていて、

私はその穴の中で近所の子と遊んでいた。

で、その防空ごうの入口付近が、突然落盤した。

そのとき、穴の中に私と数人がいた。

なにが起こったのか、分からない。

私は土を被り、しばらく動けないでいた。

少しだけ息ができたが、苦しい。

もがいていると、もう駄目なような気がした。

と、まわりで大人が数人叫んでいる。

土の中の私の手を、誰かが掴んでくれた。

気を失う前に、数人の大人が、

私を引きずり出してくれた。

防空ごうの中の他の子は、みな大丈夫だった。

以来、私は閉所恐怖症だ。

その4

大学時代、スキー合宿とかなんとか名称をつけ、

みんなで長野の野沢にでかけた。

ただの仲良しサークルだったが、遊びにかけては、

皆抜きんでているグループだった。

当時はスキー全盛の時代で、

金のない私も、一応スキー道具を揃えた。

初心者は私だけだったが、

2日目頃から滑れるようになり、

中級コースでもなんとか滑れるようになった。

それまで、スケートとかサーフィンとかをやっていたので、

上達も早いと皆に言われた。

そこで、調子に乗ってしまうのが私の悪いところで、

帰る頃はすでにベテラン気取り。

遅いスキーヤーをひょいと抜いてゆく。

これは快感だった。

混んでいる林道コースでも、

並み居るスキーヤーを次々に抜いているうちに、

スピードの制御が効かなくなった。

林道コースは細いので、カーブで大きくはみ出た私は、

次の瞬間、コースの下に転落し、

雪の崖にストックを立てて、必死にしがみついていた。

これには皆驚いて、

というか、馬鹿な奴もいるもんだという顔で見下ろされた。

助けてもらうまでの時間のなんと長いことか。

よくよく下を見ると、足元の崖下から途中が急な勾配に変わり、

あそこまで落ちていたらと思うと、

ホント、ゾッとした。

その5

小学校時代は、工場地帯でよく遊んでいた。

工場の空き地は、どこも塀で囲まれていて、

私もそこで、よく鉄くずを拾っていた。

その日は、晴れた日だったが、

突然空が暗くなり、風が吹き出した。

雨もぱらついてきた。

空き地は、3方がトタンの塀で囲まれ、

奥まったところにいた私が帰ろうと思って振り返ると、

入口付近で風が埃を舞上げて、渦を巻いている。

それがだんだん大きくなり、2階ほどの高さになると、

今度は近くに転がっていたブリキのトタンを巻き込んだ。

すると、高く舞い上がったトタンがつむじ風に乗って、

どんどんこちらに近づいてくる。

逃げ場を失った私たちは塀に張り付くようにして、

そのトタンに恐怖した。

トタンの切り口は鋭い。

あれは、刃物と変わらないのだ。

と、ここまで書いてうんざりしてしまった。

こうした話はまだあるのだが、

なんだか言い知れ感情が噴き出し、

体調まで悪くなってきたので、

ここらでやめることにしました。

スイマセンネ

しゃばいとはなにか?

最近、しゃばい、ということばを

幾度か聞いた。

いや、ネットで見たのかな?

とにかくこのしゃばいという響きが気になった。

あたまにこびりついて、離れない。

一体、しゃばいとはなんだろ?

いくら考えても、意味が分からない。

やばい、ではなく、しゃばい。

しょぼい、ではなく、しゃばい。

うーん、しまいには仕事に支障をきたしてきたので、

これは調べるしかない。

ということで、しゃばいを追いかけた。

しゃばいは、ある意味やばいの変形だという。

しゃばいはまた、しょぼいの変形ともいう。

それは、地域や時により、記憶されている。

また、しゃばいは、

水っぽいものを表現するときに使われる。

薄い味も、しゃばいと言うらしい。

「このカレー、しゃばいな」なんて言うとき、

汁が多すぎることを指す。

しゃばしゃばだな、という表現は、割と多く使われると言う。

また、「このカレー、しゃばいな」は、

味が薄すぎるときにも使われるようだ。

しゃばしゃばカレーは、要するにこってりはしていないのだ。

うーん、しゃばいは、意味深だ。

一方、しゃばいは、九州の方言だという説がある。

福岡の或る男性は、つまらない奴とか面白くないないものに対し、

しゃばいと言うことばを使うと記している。

が、しゃばいということばをよく発する茨城出身の方は、

やはり水っぽい味に対してよくしゃばいを使っているが、

いままで誰一人分かってくれなかったという。

が、しゃばいは、昔の不良が使っていたことばだとする説もある。

娑婆(牢屋の外)の人は度胸がないので、そうした振る舞いに対して、

しゃばいという表現で蔑んだとする説。

また、お金にケチな奴を指して、しゃばい奴とか、

そんな使い方もあるらしい。

とまあ、しゃばいカレーは私も好きなので、その表現を除くと、

しゃばいは、少なくとも褒め言葉ではないことが理解できる。

一般に良くないもの、良くない状態をしゃばいと表現するところは、

ほぼ一致している。

しゃばいがだんだん見えてきた。

で、いま思い出したが、昔の深夜テレビ番組で

「しゃばしゃばしゃばしゃば…」って色っぽく唄っていたのは、

11PMだ。

11PMといえば、大橋巨泉。

彼ははっぱふみふみという意味不明のことばを発明した人なので、

しゃばしゃばもしゃばいも、ひょっとしたら彼の仕業か?

こうして考えてみると、しゃばいということばは、

割と広範囲で使われているような気がしてきた。

私だけが知らないだけなのか。

コピーライターとして、おっくれてるなー。

とにかく、私も今日からこのしゃばいを多用しよう。

例えば、

しゃばい時間に、この一杯  (ネスカフェ) とか

しゃばしゃばの、新しいこくまろ  (ハウス) 

っていうのはどうだろう?

しかし、このブログに書いていることってしゃばいなーと、

いま気がついたので、そろそろ終わりにしますね。

ヘロン(青鷺)2

相変わらず、風の冷たい日が続く2月某日。

「それにしても青サギのことが気になるなぁ」

という訳で、やはりというべきか、

カメラを手に、例の場所へ。

河川敷を歩きながら、キョロキョロする。

水田跡に目を配るが、

一見保護色にも見える青サギは、

やはり遠方よりの視認では無理。

反対側の川岸へ近づくため、

河川を上流へ上り、一つ目の橋をめざす。

その地点から見渡せるどこかに、

青サギはいるハズだった。

が、いくら目を凝らしてもその姿がない。

荒涼とした水田跡に、ムクドリが数羽固まっているだけ。

あきらめて水辺を覗くと、

珍しく白っぽい鯉が泳いでいる。

河川沿いの枯れた木々が寒々としている。

がよくみると、

なんとそのなかの大きな枯れた木に、

孤高の如く青サギは佇んでいたのだ。

ニコン 1 244

こうなると、

さらに他のショットが欲しくなる。

立ち姿や餌をついばむシーン、

いや、羽ばたく瞬間も撮りたいなぁ。

そんな訳で後日でかけてみると、

あの孤高の勇姿が、河川敷の横の池にいた。

カメラを構えていると、

なんと、後方からもう一羽の白鷺が舞い降りた。

そして、二羽で餌をついばんでいるではないか。

ニコン 1 264

ニコン 1 272

それは、立ち姿の美しい二羽だった。

平和そうにみえる。

そこにはもう、孤高の気高さはない。

きっとそれは、

こちらが勝手につくりあげた幻想だった。

ニコン 1 285