台風一過

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しばし夕焼けが輝いていました

一斉に鳥も蝉も鳴き始めました

草のにおいがぷ~んと鼻を突きます

ここで近々

いきものがかりがコンサートをやります

のどかな所

息抜きによくこの公園を歩きます

コピーライターって何?

私の職業を友人たちに尋ねられた娘が、

「コピーライターよ」というと、

一同口々に「知らないなぁ」と言ったとか。

時代遅れだよと言わんばかりの娘に向かって、

私は、「そいつらはみんなバカか」と言い放った。

しかし、そうは言ったものの、

そうかもなぁと思う自分もいる。

よくよく考えるに、コピーライターって職業は裏方。

そうそう表に出るものでもないのに、

なぜかムカシ騒がれたことがあって、

そのブームが去った後というか、

日本が不景気になって久しく、

それでもコピーライターの残党が、

息も絶え絶えに生き抜いて現在に至っている―

といったイメージなのかなぁと、

我ながらしみじみ思うのだが、

たとえば江戸の提灯を細々とつくっている職人がまだいる、

というテレビを観たりすると、

いいなぁあの頑固さと、不気味に笑う自分が

いまの職業にピタリとくるように思うので、

やはりこれで良しと考えている。

さて、いまから約30年前の名コピーで、

サントリーのバレンタインギフトの広告はこんな感じでした。

―ハートをあげる。ダイヤをちょうだい―

ちょっといい。

ちゃっかりしているけれど、

しっかりハートをあげると宣言しているあたり、

いまでも通用する。

さて、ダイヤを買う金はないけれど、

俺はまごころで返します…と。

だって若い頃って、金もないしね。

ハートをあげる。ダイヤをちょうだいって、

ひょっとしたら、結婚もOKとも受け取れる。

かなり意味深な威力も秘めている。

蛇足はともかく、コピーライターって言葉を駆使して生活している。

なので、一発必中の矢を放つことにかけては、比類無い力を発揮する。

次は、新潮社の新潮文庫のコピー。

― 一冊、同じ本を読んでいれば、 会話することができると思うの。 ―

さりげない女性の話し言葉の美しさ。

気になる女性にこんなことを言われたら、

たとえ百科事典でも岩波の国語辞典でも完読しますね。

1027ページの花の写真はキレイだったね、とか、

○○の五段活用について、君の意見を聞きたいとか…

上記のコピーも80年代と記憶しているが、

いまだ色褪せない。

一瞬のブンガクというか、

一行小説と言っても過言ではない。

で現在では、こうしたコピーはほぼ見かけない。

テレビもネットもこうしたコピーは、

もはや威力がないと考えているのか。

もてはやされているのは、

かなり幼稚で言葉尻だけ捉えたコピーづくりとか、

ヤンキー言葉なんかを使ったりして、

そこはとても自然のようなのだけれど、

後に何も残らない。

そして少し嫌な気分だけが残る。

他は安いのみの強調とか、

奇抜な映像のみでガンガン押してくるから、

押しつけがましい事この上ない。

だからつまらない。

果てはコマーシャルがウザいとなる。

そしてまた、いまはテレビのコンテンツも面白くないから、

問題は一層根深いものとなっている。

こうした負のラビリンスって、

もはや止めることのできない時代の流れでもある。

よって、コピーライターの力量が発揮される出番がない。

いや、受け手がそれを欲していない、または理解しない。

そこに曖昧さが残っているのも事実ではある。

自分の実感として、

まず先方の要望が言葉より他をめざしている場合がある。

たとえばカッコイイデザイン第一主義。

これはこれでアリの場合もあるにはある。

デザインでモノは売れる時代ではあるが、

言葉の強さを信じていない、という点で、

現在の風潮はちょっと寂しい気がする。

総じて皆忙しいから文字なんか読まないんだよなぁ、

という思い込みが蔓延している。

これは一部正解で、他方大きく間違っている。

私は一発で相手を射貫くようなコピーはつくれない。

が、どんな仕事でも最大限それに近づくよう、

努力をしている。

まあ、仕事を受けた時点で、総合的な判断、

次に企画の概要、デザインのアウトライン、

そしてコピーも同時に考えるのが我々の仕事なのだが、

いろいろとサンプルテストを繰り返して分かる事がある。

それは、やはりコピーの出来不出来により、

反響に大きな差が出ること。

これは事実。

目立たないポジションではあるが、

やはりコピーライターの仕事って、

かなり重要だと自覚している。

そしてやがてまた、

言葉なりコピーの時代が来るように思う。

何故って、結局時代は常に巡っているからです。

独りって…



独りってなんだか自由で、

ひどく寂しいときがある

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時代とコピー感覚

かつて日本が繁栄を極めた80年代、

「おいしい生活」というコピーが巷に溢れ、

このコピーはまた、当時の時代の空気を的確に表していた。

都会も地方も皆元気で、ほぼ横並びの中流意識は、

更なる繁栄を信じ、遊びに仕事に精を出していたのだ。

この広告主は、西武セゾングループ。

バブルと共に頂点に達した企業である。

コピーライターはあの糸井重里。

さて、いま「おいしい生活」と聞いても、

現在の私たちにはピンとこない。

それどころか、おいしい生活という語感から想像する生活は、

ちょっと怪しい気配すらある。

何かを誤魔化す、ちょろまかす…

そうした行為の上に成り立つ生活とでも言おうか。

しかし、当時のこのコピーの響きは、

希望に満ちたよりよい明日への提案として、

皆に受け入れられたのだ。

今日より明日、

更に素敵な生活はすぐそこにあります、とした提言、

それが「おいしい生活」だったのだ。

同じ80年代、別の美しいコピーがヒットした。

サントリーが発信したウィスキーの広告だった。

「恋は遠い日の花火ではない」

このコピーは、当時の中年のおじさんの心をわしづかみにした。

当然のことながら、世はバブルである。

おじさんたちは、右肩上がりの成績を更に伸ばすべく奮闘していたのだが、

やはり、ふと気がつくともの寂しかったのか。

コピーにつられ、もうひと花咲かせようと…

前向きでポジティブな時代の空気のなかで、

このコピーは何の違和感もなく受け入れられた。

総じて、或る側面から光りをあてれば、

夢のあった時代だったといえる。

しかし、例えばいまどこかの広告主が、

恋は遠い日の花火ではない、と謳ったとしても、

いまひとつ響かないだろうし、

受け手は、そうなのかな?程度に終わるように思う。

いわゆる不発である。

過去に優れたコピーでもいまではヒットもおぼつかないほど、

時代は移り変わっているのだ。

では、このコピーを少しいじって

「戦争は遠い日の花火ではない」

とか

「テロは…」

とすると、いきなり迫真めいてくる。

いまという時代にフィットしてしまうから、

それが辛いし、皮肉な事である。

では、更に時代を遡り、

「隣のクルマが小さく見えます」というコピーが流行ったのが、

バブル期よりずっと以前の70年代初頭。

広告はトヨタ、クルマはカローラだが、

日産サニーに対抗すべく、できたのが、

このコピーだった。

まだ日本に、いや世界のどこにもエコなんていう発想もなく、

でかいクルマ=裕福という図式の世界だったのだ。

よって、こうした時代に流行ったのが

「いつかはクラウン」であり、

「羊の皮を被った狼」のBMWだった。

当時のクラウンは、いわば成功者の証しであったし、

いま思えば、幼稚で下らない自己実現の方法だが、

当時はこの程度で皆が満足できる時代だったともいえる。

コピーを広義に「言葉」として捉えると、

言葉というものもまた、

時代とともに動くナマモノであるし、

なるほど人の世界ってまさしく、

刻々とうごめいているという形容がピタッとくるから、

やはり不思議という他はない。

コピーは、その時代を的確に表しているし、

また相反するように、時代とズレたコピーはヒットもしない。

しかし、例外的に時代を問わず普遍であり、

いまでも魅力的に響くコピーも存在する。

例えば、

「時代なんてぱっと変わる」(サントリーのウイスキー)

「あっ風が変わった」(伊勢丹の企業広告)

「少し愛して長く愛して」(サントリーのウイスキー)

ついでに、

「君が好きだと言うかわりに、シャッターを押した。」(キャノン)

「恋を何年、休んでますか。」(伊勢丹)

こうした例は、

もはやコピー・広告という概念を離れ、

時代に左右されない人の心を射貫いているのだろうし、

こうしたコピーは、もはや名言・格言の域に達しているのではないか。