星のきれいな場所

 

星のきれいな場所というフレーズを

ネットで偶然にみてしまった。

何かの記事か、広告のコピーなのかは忘れたが、

ただ通り過ぎるには惜しいと思った。

簡単そうで、わりと思いつかない。

良いフレーズなのだ。

 

星のきれいな場所は、

想像だけど、小高い丘のうえだったり誰もいない海岸だったりする。

もちろん街からはだいぶ離れている。

 

クルマで行くところ。

が、山奥ではないし無人島の浜でもない。

そこまでストイックに想像を絞るほどではないような気がする。

 

星のきれいな場所は、

誰もがプラッと出かけられる距離にあったりするので、

日常にちょっと疲れたとき、気分が沈んでいる、

メンドーな仕事が片付いて…

そんな疲労感を一掃してくれるのが、

星のきれいな場所だったりする。

 

このあたりでたとえると、そう、

湘南平とか大磯の海岸とか?

 

星のきれいな場所は、日本各地にいくつもあって、

そのどこもが何故か、

救われるとか心のよりどころだったりする。

今夜もそんな星のきれいな場所に出かける人が、

ぽつぽつと現れるから、

やはりそこには、特別な何かが宿っているのかも知れない。

 

 

オススメ映画「ブランカとギター弾き」

 

無料、ただで映画を観るのは、要するに時間の無駄だった。

 

某テレビの午後のロードショーを録画して観ていたが、

いい映画がホントに少ない。

週に一本あるかないか。

その程度の確率だから、映画が終わってうなだれてしまう日が続いた。

寝る時間が遅くなるだけで何にもいいことがない。

 

ひとつ分かったことがある。

ハリウッド映画といっても、実は数打てば当たる、

というつくり方をしている。

ヒット作の下には無数の駄作がうごめいている。

それを流す午後ロードは、予算の問題なんだろう。

地上波初登場なんて宣伝されている映画は、

通常では流せないというレベルのものだ。

 

あと、気づいたこと。

どれもスパイもの、陰謀もの、殴り合う、銃を撃ちまくる…

そんなものばかりなのだ。

それがスカッとするかというとそんなことはない。

心がすさんでしまうのであった。

おかげで夢にまで悪党が出てきて、こちらの眠りを脅かすありさま。

 

ではということで、アマゾンプライムでアドベンチャーという

キーワードで検索すると出てくる出てくる。

映画ってホントに無数にあるんですね。

で、ずっとスクロールをしていると、

アドベンチャーとはほど遠い映画に出くわした。

偶然の出会い。

 

 

非ハリウッド映画で、フィリピン、日本、イタリアの合作映画が、

表題の映画だったのである。

 

映画の舞台はマニラのスモーキーマウンテンだと思う。

かなりひどい貧民街である。

ちなみにスモーキーマウンテンの名は、

街に溢れているゴミが自然発火して、

いつも煙に包まれているかららしい。

 

ここで暮らす?ブランカは、8~9歳くらいの女の子。

親がいない。ストリートチルドレン。

盗みとかいろいろ悪いこともやっている。

夜は公園とかで寝ている。

 

 

街を歩く親子を、彼女はいつもじっとみつめている。

 

或る日、公園で目の見えないギター弾きの老人と知り合いになる。

ピーターというその老人はブランカにちょっと歌ってみないかと誘う。

ブランカが恥ずかしそうにして歌い始めると、

まわりの人たちが徐々に彼女に注目し始める。

 

ブランカの歌がなかなかいいのだ。

 

シンプルなギターとメロディ、素朴で透き通る歌声。

それをたまたま聴いていたクラブの経営者に、

ウチで歌わないかとスカウトされる。

ピーター老人とブランカは、ひさしぶりにシャワーを浴び、

初めてベッドでぐっすりと眠ることができた。

 

 

まあ、これから観る方のためにストーリーははしょるけれど、

或るシーンで、彼女がニワトリを掴んで、

走るトラックから飛べ飛べとはしゃぐシーンがある。

 

鳥なのになぜ飛ばないのかと彼女は疑問に思う。

乗り合わせた大人がこう言う。

飛ばなくても良くなったから。

それは人間に飼い慣らされたからという皮肉でもあると私は理解した。

 

登場人物は、役者というより素人に近い。

映る街並みはどこもゴミだらけでひどいありさまだ。

 

僕は、生まれ育ったずっとずっとムカシ、

昭和30年代の横浜の外れの、

灰色の空の下に広がる雑然とした町を、

不意に思いだしていた。

 

 

ブランカとピーター老人のストーリーはこの先も全然甘くない。

下手をすれば死と隣り合わせの毎日。

が、悲劇のようでもない。

ハッピーエンドでもないのだ。

けれど、このふたりの必死に生きてゆく姿をみて、

僕は忘れていた何かを思い起こしていた。

 

考えてみればこの街の誰もが悪い奴のようでもあり、

実は誰も悪くはないようにも思えてくる。

ピーター老人の奏でるギターの音と、

ブランカの透き通る声が、

公園に吹く風に乗って街を過ぎるとき、

人の原点は実はシンプルなんだと知らされる。

もしそこに、信頼とか愛とかがあれば、

(実はここが肝心なのだが)

それに勝るものはなにもないのではないか。

それは実に当たり前のことなのだが…

 

ひとの気持ちというものはときどき洗濯をしないと

どんどんと汚れていくものなのだ。

そうした忘れかけていた大切なひとつひとつを、

押しつけがましくもなく、

凝ったりひねったりのストーリーがある訳でもなく、

さりとて過剰な演出などとは無縁なのに、

こちらにしっかりと伝わる映画なのだ。

 

こういう映画にいまハリウッドは勝てない。

むしろ日本映画のほうがいい。

 

「ブランカとギター弾き」はその先を行く。

 

 

↑は以前投稿した記事を編集して、再掲載したものです。

 

きょうの短歌

 

 

この国は右も左も抜け目ない政治屋跋扈(ばっこ)革命前夜

 

↑ここ最近の政治動向をみるにつけ、政治屋さんの発言・やっていることにはかなり失望しておりまして、あとは明日の選挙に期待するしかないですね。とても淡い期待ですが…

 

 

 

 

 

自由への道を歩いたこの道は鬼さえ出るが天が見守る

 

↑会社つとめが性に合わず、いろいろと試行錯誤の連続でしたが、最終的には自分を信じるしかない訳です。自分を信じることは、すなわちこの世界を是認することだと思うのですが。

 

 

 

きょうの短歌

 

 

令和にて檸檬(れもん)ばくだん教室に置いて立ち去れ見上げよ空を

 

 

 

きょうの短歌

 

 

 

政治家がえがおを振りまき手を握り心にもあらずもあなたのためと

 

 

天地荒れせかいの民がめざめると丙の午が世を駆けめぐる

 

 

 

正月は茅ヶ崎の海へ

 

 

茅ヶ崎の海をみるのは久しぶりだ。

自宅から小1時間なのに。

 

 

僕は山沿いに住んでいるので

窓を開けると、まず山を眺めて、

天気だとかの見当をつける。

海沿いに住んでいる人は、空はもちろん波の具合とかで、

その日の見当をつけるのだろう。

 

 

 

正月の4日は快晴で、海も山も風は強いけれど、

陽はさんさんと照っていて、雪化粧の富士山もみえた。

早朝の気温は1度だが徐々に上昇。

が、二桁までは伸びず、

風と相まって海岸沿いはかなり寒い。

 

この海岸から烏帽子岩がよく見える。

茅ヶ崎漁港付近をうろついていると、

地元の方たちが仕事に精を出している。

それが釣り船だったり漁だったり、

年初から忙しそうだ。

 

 

 

近くの店でサンドイッチとコーヒーをいただき、

クルマを辻堂へと走らせる。

休日とあって、なかなかしゃれたクルマが突っ走っている。

ときおり、バリバリバリと騒音をまき散らした

バイクの一団が爆走していたりする。

 

辻堂海浜公園は、サーファーがクルマを停め、

この寒いなか、海へ出ている。

「このクソ寒いのに…」

若いひとはすごいなぁって感心してしまう。

 

 

ここからあとひと息で江ノ島なのだが、

あそこはむかしと違い、

いまでは一大観光スポットなので、

近寄らないことにする。

 

 

で、この日の海を巡るドライブは終了。

帰路も行きと同様、

寒川神社付近で大渋滞に巻き込まれる。

この道を避けるのを忘れていた。

 

やはり年をとったなぁって、

新年早々ぼやいてしまう。

 

 

 

きょうの短歌

 

 

地球って人の心を受け止める泣いて笑って大地を揺らす

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

 

きょうの短歌

 

 

ボクたちはまばたきほどを走りゆく切ないほどの時の旅人

 

 

この風のにおいあの日の君がいた僕らはいつか遠い人となり

 

 

 

 

きょうの短歌

 

 

令和の世天地不和にて荒れ狂い

宇宙の果てへニュース流るる

 

 

 

 

 

ゆれ動く死生観

 

さんざん働いてきたので、

最近では残りの人生を意識し、

時間を爪に火を灯すのごとく

無駄なく有効に使いたいとか、

そんなことを意識しているのではないかと

思えてくる。

 

自分の深層心理は不明なのだけれど、

なにかを急いでいるふしがある。

 

自分は不可解だ。

 

たとえば、夜更けの僅かな時間に、

往年の女優、グレタ・ガルボを観る。

ハービーマンのフルートを聴く。

 

他人からみればくだらない事柄でも、

こっちは譲れないなにかに突き動かされている。

 

昼間は、仕事の合間をみて、

河原へ焚き火にでかける。

写真を撮りにあちこち歩き回わる。

 

夜はジャズを聴きに横浜へ。

 

はちまた書家の先生に教えを請うため、

たびたび目黒へでかけたり。

 

が、こう書くと、

人生は暇つぶしなのか?

とも思えてくる。

 

真剣な暇つぶし。

 

この一連の暇つぶしは、

いまから10年前に検討し始めた。

 

いちおう真剣なのだ。

 

うすうすだが、

死を意識するようになったことが、

そのおおきな要因なのかも知れない。

 

ながい人生でそんな場面には、

幾度となく遭遇したけれど、

最近ではその死さえ確実に近づいてきた訳で、

いよいよ腹を据えての暇つぶしとなる。

 

人生って実はとても単純そう、

と思える記述や映像によく出くわす。

やりたいことをやれなどと、

あちこちで吹聴している人たちがいる。

 

渦中にいるとなかなか

やりたいことなんてやれない。

かつ入り組んでいて、

一見浅いようで、

やはり人生ってどこまでも深遠だ。

 

そして生と死は

一見、こちら側、あちら側と分けることができそうだが、

実は混在していて、

同じ世界の表裏に、または同じ場所に、

いやそれさえ曖昧なまま、

すでにいずれも在るのではないか。

 

なんだか近頃では、

その境界さえこちらの思い込みなのではと

この世の中の成り立ちをあやしんでいる

自分がいたりする。

 

親しい友人ふたりがいなくなってから、

そうした思いはよりつのる。

 

彼らは、どこかにいそうだ。

電話にも出そうだし、

メールさえ返してきそう。

まだ解決していない話がいくつもあるじゃないか。

手を尽くせばなんとか話せそうだ。

死して、相変わらず生きている。

そう感じて仕方がない。

 

さて、今夜はマレーネ・ディートリヒの歌でも聴こうか。

そのうち時が満ちれば、

グレタ・ガルボとも話せそうだし。

 

そして思うのだ。

この生きているっていうこの感覚さえ、

ホントかどうかも分からない。

すべて妄想だったりしてと。