グラスの向こうの夏

 

「月と太陽ってお互いを知らないみたい」

「おのおの昼と夜の主役。

だけど、すれ違いの毎日だしね」

 

「スタンダールの『赤と黒』って

確か軍人と聖職者の話だったよね」

「そう、対照的な職業」

 

「南の海のエンジェルフィッシュと

北の海のスケソウダラが一緒に泳ぐ、

なんてことがあり得ないのと同じ」

「そうね、いずれ相容れない何かがありそうだね」

「なんだか私たちと同じ」

「そういうことになる」

 

仲のいい友人、夫婦、親子、兄弟、姉妹でも、

あらゆる面で相反するというのは、

多々ある事なのかも知れない。

私たちもそのような関係と思える。

 

それはお互いの思惑の違いから、

(それは恒例ではあるのだけれど)

たとえば夏の旅行の計画などの話になると、

途端に方向性が異なる。

相容れない。

行きたいところだけでなく、

趣味が全く違うのだ。

そしてお互いに譲らない。

そこは同じなのにね…と彼女は思う。

 

片方が海といえば、

相手は山へ行きたいと言い張る。

話は平行線のまま。

決して交わることはない。

やがて意地の張り合いになり、

ひどい喧嘩となって、

結局いつものように沈黙が続く。

 

やはり月と太陽

赤と黒か

エンジェルフィッシュとスケソウダラみたいに

相容れない。

 

しかし「今年こそは」とふたりは願っている。

そこは似ているなと、

ふたりはつい最近になって気づいた。

 

グラスの氷がカタンと鳴って、

そして静かに沈む。

トニックウォーターが震えるように揺れる。

ふたりはため息のあとでそれを口に含む。

庭の木で蝉が鳴いている。

とても暑い鳴き方をするミンミン蝉だ、

とふたりは同時に思った。

 

果たしてグラスの中の氷は彼女の熱を取り去った。

それは相手も同様だった。

 

そして想いまで冷めては元も子もないと、

ふたりに囁く誰かが、

この部屋に降りてきて…

 

「とにかく出かけようぜ!」

「そうね、私支度してくる」

やはり似たもの同士なのかも知れない。

 

ようやくお互い、笑みが浮かんだ。

 

 

 

「最近ついてない…」ので、寒川神社にお参りしてきました

最近、どうにも運が悪い。
良くないことが続いている。

車は突然動かなくなるし、腰は痛むし、先日はテレビまで壊れた。
しかも買ってからそんなに経っていないのに、急に映らなくなってしまったのだ。
これは何かあるな…と思わずにはいられず、「お祓いしてもらった方がいいのでは」と本気で考え始めた。

そこで思い出したのが、ふたたびの相模国一之宮「寒川神社」だ。
(数ヶ月前にも行ったのだけどね)

深読みすれば、以前も寒川さんにでかけたので、この程度で済んだと言えなくもない。
そんなの迷信だよと笑い飛ばすほどの勇気が、僕にはない訳で…

寒川神社は、全国的にも珍しい「八方除(はっぽうよけ)」の守護神として知られ、
すべての方位の災厄を祓ってくれるという神社である。
車や家の厄除けで訪れる人も多く、建設業者や運送業の方々の信仰も厚い。
そういえば、以前知人が「寒川神社でお祓いしてもらってから仕事が順調にいっている」
と話していたのを思い出したが、それは迷信なのではと思った自分がいた。

というわけで、ある晴れた酷暑の夕方、車で寒川神社へ向かった。
厚木からは小一時間ほど。
途中、道も比較的空いていて、気持ちよくドライブできた。
もちろん、車のトラブルも皆無。

寒川神社に到着すると、夏の陽も傾く時刻ということもあって、
少し涼しい風に変わっていた。

 

 

 

鳥居をくぐり、手水舎で身を清めてから、本殿へ。
どっしりとした佇まいの本殿は荘厳な空気をまとっていて、
自然と背筋が伸びる。

参拝を終えた後、社務所で「八方除け」のお守りをいただいた。
迷った末、車用と身につけるものの両方を購入。
これで少しでも不運が遠のいてくれればと、心の中で祈る。

境内には「神嶽山神苑(しんがくさんしんえん)」という美しい庭園もあり、
今回は閉鎖されていて立ち寄れなかったが、次回はぜひ訪れたいと思っている。
庭園の中には茶屋もあり、抹茶とお菓子をいただきながら、
静かなひとときを過ごせるそうだ。

 

 

帰り道、なぜか心が少し軽くなっている自分に気づいた。
神社のご利益というのは、もちろん霊験あらたかであることを信じているが、
こうして「何かに守られている」と実感できること自体が、
気持ちを前向きにしてくれるのかもしれない。

ちなみに寒川神社は、元旦の初詣では大変な賑わいを見せる神社でもあるが、
平日、まして暑い季節に訪れると、荘厳な空気のなかで
ゆっくりと参拝できるのでおすすめだ。

春には桜、秋には紅葉と、季節ごとの風景も楽しめる。

というわけで、今回は「最近ついてない」ことのリセットも兼ねて
寒川神社にお参りに行ってきたという話でした。

願わくば、これ以上家電が壊れませんように。
そして、腰痛も和らぎますように。

 

 

 

 

 

きょうの短歌

 

じーじーと

鳴く虫とゆく

あぜ道の

空に広がる

白いカゲロウ

 

 

旅行の帰りはレッカー車

前々回に載せた旅行記事「八ヶ岳逃避行」ですが、
最終日の午前まではホントに良かった!

実はその後がたいへんだった訳です。

2泊3日の最終日。

小淵沢のこじゃれた中華レストランで
優雅に昼食を摂り、日曜ということもあり、
混雑を懸念して早めに帰路につきました。

中央高速はまだ混雑もなく、
車はほどよい間隔で走行している。

で、甲府を過ぎた頃、
帰りに富士五湖でも寄ろうということで、
山梨の大月ジャンクションから大きく道を逸れようと、
奥さんと話しながら走行していました。

車は絶好調、と思ったんですがね…

あの長くて有名な笹子トンネルを通過しているときでした。
突然、警告灯が点灯しました。
ん? なんだなんだ。

最初は「空気圧が低下している」
次に「ラジエターの水量が足りない」
「横滑り防止装置が機能しない」
「すみやかにエンジンを停止してください」

トンネルのなかで、これらの警告メッセージが、
めくるめく表示され点滅なんかしている。

僕は即座にハザードを点滅させ、
減速して横と後部の車に異常を知らせました。

即判断しなくてはならないのは、
この全長5キロの笹子トンネルのなかで、
果たして停車していいものなのか?
だった。

みんな飛ばしているので、
スピードダウンもかなり危険だ。

左側に等間隔であらわれる緊急用のスペースを
確認するも、狭すぎてうまく停車できないと判断。

トンネルはあと4キロは続く。
トンネルは上り勾配でエンジンは高回転。

オーバーヒートが頭をよぎる。

が、こんなトンネルで止まる訳にはいかない。
奥さんはパニクると黙ってしまう癖がある。

水温計に目をやると数値は正常値をさしている。

僕はやけくそでトンネルを出るまで
突っ走ることに決めた。

前方が白々とみえたときはホッとしたが、
外に出ると、そこから急な下り坂だと分かった途端、
ブレーキの警告も出ていたことを思い出す。

ふたたび僕は緊張を強いられた。

逃げられる路肩を探しながら、
僕はふたたびハザードを点滅させ、
ブレーキをテストしてみた。

思い起こすと、このときが一番怖かったのかな、
と思う。

幸運にもブレーキは効いてくれた。

車には真空倍力装置なるものが付いていて、
電気系統がイカれると、普通に踏んだだけでは、
ブレーキなんか効かない。

僕はこの一瞬にすべてを賭けたといっても過言ではない。

やがて左前方にバスの停留所のようなものを発見。
車を減速して、僕はそのスペースに飛び込んだ。

保険会社に電話するまで5分は放心していた 笑

レッカー車がくるまで40分、僕ら夫婦は山梨県大月の
山中で時間を潰した。

さいわいエアコンは効いてくれていたし、
腹は減っていないし、
ペットボトルも何本か座席に放ってあったので、
それが幸運だった。

 

 

この日の大月の気温は34℃くらいだったので、
いろいろ想像すると怖い結末が待っていたような気がする。

僕は、このレッカーの若いおにいさんに、
この車の異常はセンサー類の故障では?と問うた。
彼はこのクソ暑いのに満面の笑みで「さあ」と
話すと、ものすごい手際の良さで車をレッカーに
積載してくれた。

思えば、この人はレッカーのプロだが、
故障のプロではないのだ。

(後日、この車はセンサーが壊れていたことが判明した)

次のインターでマイカーを積載したレッカー車とお別れし、
僕らは地元のタクシーに乗り、
そこから家路についた訳だが、
いろいろと時間がズレたので、
中央高速は大渋滞となってしまい、
家についたときはすでに夕方になっていた。

この素晴らしい旅行に訪れた、
最後の悪魔のような出来事。

当分はトラウマとして、
僕の脳裏に刻まれることだろう。

奥さんも同様なのは、間違いない。

 

きょうの短歌

 

 

海いろの 

シャツはためいて 

灼熱の 夢 

胸をわた る 

貿易風 

 

 

八ヶ岳逃避行

 

2年ぶりの八ヶ岳。

 

前回も猛暑だったことを思い出した。

 

途中、立ち寄った山梨県・双葉サービスエリアで、

車のドアを開けると、

外はたき火の横にいるような熱気に包まれていた。

 

食堂は人の列。

僕は自販機でアイスコーヒーを買い、

そのまま立ち去った。

 

標高1200メートルの山小屋に着いたときはホッとした。

 

その日の夜は肌寒くもあった。

 

 

そして今回の宿は、小淵沢。

山梨県と長野県の県境あたり。

標高600メートルくらいだろうか。

 

昼間はぜんぜん涼しくないが、

夕方になるととても心地の良い風が吹く。

 

近くにサントリーの白州工場がある。

水がおいしくて豊富だからだ。

 

 

八ヶ岳は晴天率も飛び抜けて高い。

首都圏は相当天気が荒れていたらしいが、

こちらは小雨が降った程度で、あとはサッと晴れる。

 

この日は小淵沢へ行く途中の、

中央高速の長坂インターを降りて

まず清里へ向かった。

 

ずっと上り坂なので、

車のエンジンは回転数を上げ、

なかなか良い音と振動が伝わる。

 

山の緑の陰影が美しい。

空がデカい。青い。

 

 

雲がぽかんと浮かんでいる。

 

車を清泉寮の牧場にとめ、

コーヒーを飲みながら、

ずっと雲が流れてゆく様をみていた。

 

陽差しは強いが、

気温は25度くらいだろうか。

 

遠くに人の声。

草のなびく音。

 

近くにいた家族ずれ。

小さな女の子がソフトクリームを頬張っている。

その向こうに、初めてのデートと思われる若いカップル。

ふたりの仕草がなんだかぎこちない。

(懐かしい風景)

 

 

いまこの空に、たとえばペガサスが飛んでいたとしても

何の違和感もないようなひととき。

 

日常と奇跡は、ひょっとして紙一重なのかも知れない…

 

 

僕は思わず居眠りをしてしまった。

 

 

 

↑清里は閑散としている

 

 

きょうの短歌

東大に

入るも出るも

政治家は

いずれどいつも

大でくの坊

 

 

「雨月物語」の妖しい世界

 

雨月物語を読んでいると、

妙な感覚に陥るのです。

江戸時代の後期に書かれたもので、

作者は上田秋成という人です。

 

読むのはだいたい寝しな。

夜中です。

 

話のいずれもが、

生きている人とすでに死んでいる人が

違和感なく話をしたり

振る舞ったりしているのですから、

ちょっとこっちとしては困ってしまうのですが、

まあ、登場人物に生死の垣根がなく、

あるときは動物の化身が話したりと、

ある意味おおらかでいいんですね。

 

私の枕元のスタンド近くには

母の遺影が置いてありまして、

一応就寝前にひと声かけるのですが、

これまた日によって怒ったり微笑んだりします。

 

そして雨月…を読み進むうちに、

どうもあの世と現世の境が曖昧になります。

 

この雨月物語は、

話の下地が中国の白話小説らしいということは、

判明しているらしいのですが、

まあ日本各地の地名が出てくるので、

リアリティはあります。

 

たとえば白峰という話。

西行という坊さんが四国の白峰陵に参拝したおり、

いまは亡き上皇の亡霊と対面する。

 

そして両者で論争となるのですが、

その場面がかなり迫力があります。

(詳しくは読んでください)

 

そして死んだ者が歴史を変えている事実を、

後に坊さんが確認するという話なのですが、

現世の営みに死者も参加していて、

そこいらへんの境がない。

 

浅茅が宿は、なかなかの悲劇で、

ときは乱世。

 

遠く京へ商売に出た男が

なんとか7年目に奥さんの元へ帰り、

すでに死んだ女房と対面するという話。

これは7年ぶりに対面した夫婦の風貌、

仕草、会話が秀逸で、涙をそそります。

 

蛇性の淫…このあたりからは話しません。

読んでみてください。

 

さてこの世界って、

果たして生きているものだけで

動いているものなのか?

雨月物語を読んでいると、

この世というものはそもそも

過去の人もまぜこぜになって

成り立っている、

のかも知れない…

そんなことを考えたりもしてしまう訳です。

 

ある哲学書に死んだら無だとありまして、

違和感を感じたことがありました。

無とはさみしい。

 

そして想像しがたい恐怖が湧いてくる。

なので、最近は

無はどうも言葉の綾でしかないと

考えるようにしています。

 

雨月物語はまぁつくり話なのでしょうけれど、

話と筆運びのうまさが引き立ちます。

よって、現実にはあり得ないのに、

引き込まれてしまう個所もしばしば。

 

作者の前書きが面白いんですね。

この時代からすれば

過去の名作である源氏物語の紫式部と

水滸伝の羅貫中を引き合いに出し、

彼らは現実にあるような凄い傑作を書いたばかりに、

後に不幸になったが、

私のは出鱈目(デタラメ)だから

そんな目にはあわないと宣言しているんですね。

 

これは卑下か、

いや厄除けのようにも思える。

 

しかし比較するものから思うに、

上田秋成はこの話を書いたとき、

相当の手応えを感じたに違いない。

要は自信のあらわれだろうと想像できます。

 

ちなみに雨月物語のタイトルの由来は、

世の中、妖しい事が起きるときというのは、

どうも雨がやんで月が見えるころらしい、

というところからきている。

 

ちょっと怖いけれど、

時間と空間を超えて綴られるこれらの話って

実はロマンチックの極みなのかも知れません。

 

 

米騒動は誰のせい?

 

そもそもですね、
この件は農林水産省の減反政策が間違っていましたね。
米が足りなくなる予測が出た段階で、政策を転換すべきでした。

米の需要は減っていません。
減反政策なんかしなくても、米農家は高齢化で、
次々とやめています。

TVをつけると相変わらずの小泉さんが登場。
彼の活躍ぶりを連日報じています。

だが、古米、古古米、古古古米を放出している時点で、
メディアはこの騒動の本質はどこにあるのか、
を論じるべきではないのか?

なんだか違和感だけが残る。

メディアは何を隠しているのか。

TVは備蓄米の販売に行列している人の映像を流し、
受け取った米袋を手にした人にインタビューをする。

当然、うれしそうな感想を述べますよね。

これってメディアのお決まりのパターンなんですが、
ニュースってこの程度で良いのですかね?

結局、私たちはこの騒動の実像を掴めない。
そして新たなニュースが次々に流れては消えてゆく。

連日、そんな報道が続くと、
こんな私でも「TVってどこかおかしい」と
気づいてしまう。

気づかなかった方、すいません。
いや、気づいてください。

TVはすでにオールド・メディアと呼ばれ、
事の真相を語らないまま、年を重ねてしまった。

自らを老けさせたのは、そこに誠実さと正義という、
ジャーナリズムにとって命ともいえる
精神を捨ててしまったから。

自他を欺いて、自ら破滅への道を選んだのだ。

老兵はただ去るのみって、
いまさらながらだけど自覚してくれると、
多少は救われるのだが…

 

きょうの短歌

 

ゆく手に 

有り余るひかり

地を跳ねて

夏の夜明けは

ボクの舞台だ